ガンジスの少年
夜明け前、アルティ(ガンジス河の女神への祈り)が行われるガートへ向かうため、小舟に乗った。街灯の灯りが辛うじて届く程度で、船の上はまだ暗闇に包まれていた。日中の蒸し暑さや、クラクションが引っ切り無しに鳴り響く街の喧騒が嘘のように、静かな時間がここにあった。小さなエンジンは、トットットッと懐かしい乾いた音を立て、流れとは逆方向にゆっくりと進んでいた。風がとても気持ち良かった。このまま死者の世界に運ばれたとしても不思議ではない。そんな情景だった。あたりが少しずつ明るくなり、小鳥たちが活発に飛び始める。ネットで検索すれば出てくる「ベナレス」の風景が目前に現れたが、特に興味はもてなかった。僕は振り返り、舵を操る少年に声をかけた。彼は、一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐにカメラを見つめ返してくれた。カメラの感度を最大にし、レンズの絞りを開放にして、静かにシャッターを押した。            
 30分ほどのアルティが終わり、再び小舟に乗り込んだ頃には、あたりはすっかり明るくなっていた。小舟が岸から離れると、少年はエンジンを切った。小舟はガンジスの流れに従い、水面に浮かぶ葉っぱのように、ゆらりゆらりとゆっくり下っていく。それは少年の粋な計らいだった。大河の上の小舟は、まるで母に抱かれた子供のように、ガンジスの流れに全てを任せ、安らかな時間を与えらていた。少年はこの時間が好きだ言った。僕は少年と同じように、仰向けになり、頭の下で手を組むと、ゆっくりと目を閉じた。柔らかな風は心地よく、強くなり、弱くなり、通り過ぎていく。考えてみれば、風を風と感じたことなど、あっただろうか。この時はじめて、僕は自然の一部であるということを実感した。自意識が遠ざかる。あなたはいったい何を恐れているのか、とガンジスが問う。現世の幸せだけに固執し、一喜一憂している、せこい自分の姿が、一瞬、茶色く濁った川面に映った気がした。
「終わりもなければ始まりもない。ただぐるぐる回ってるだけだよ」どこからともなく、そんな声が聞こえてきた。
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